Slow Luv op.4 -3-



(5)


 喉の乾きで夜中に目が覚めた夏希は、台所に向かう途中、離れのレッスン室に灯りが点いていることに、気がついた。
 母屋からのドアの小窓で中を覗くと、
「エツ兄?」
ピアノの前に座る次兄・悦嗣の姿が見えた。
 夏希はそっとドアを開ける。常日頃ノックもせずに部屋に入る彼女なのだが、今夜はなぜか出来なかった。兄の横顔が違って見えたからだ。
 防音の扉を開けると、音が溢れ出す。慌ててドアを閉めた。
 いつもの悦嗣なら、ドアが開くとすぐに演奏を止める。しかし彼の指は止まらなかった。夏希の気配など全く気づく様子はない。
 音が部屋を満たしていた。曲は『幻想即興曲』 ショパンの華麗な旋律に、夏希の体はドアに縫いとめられていた。
――本気の、エツ兄だ。
 彼女の目は、彼の指の動きを追う。生み出だされる音楽が、見える気がした。耳を通して、体中に音が浸透していく。
 本気の兄を見るのは、数える程しかない。九才離れているので、夏希が真剣に音楽を意識し始めた頃には、悦嗣はもう社会人――それもピアノと関係のない――になっていて、ステージでの演奏はほとんど記憶になかった。妹のために弾いてくれたことは何度もあったが、それはあくまでもお遊び。同じ大学の音楽学部に入って、兄を教えた技術系の教授達が夏希を妹と知るや、「あの加納悦嗣の」と冠して兄を誉めそやすので、その才能を知ったようなものだった。
 一昨年の六月に代役で出たアンサンブル・コンサート、同じ年に中原さく也と弾いた母校での模範演奏で、夏希はその『本気』に触れた。前者はクインテットの一人だったし、後者は言わば中原さく也の伴奏だった。ソロでの本気を聴くのは初めての夏希は、興奮していた。
――エツ兄、かっこいい
 曲は途切れなく続いていく。『夜想曲』、『マズルカ』、『ポロネーズ』、ショパンにチャイコフスキー、ラフマニノフと、悦嗣の指はまるで、何かに憑かれたように鍵盤の上を走った。
 自分に気がついて曲が止んでしまわないように、夏希は息を殺して聴き入っていた。
 ピアノの音は明け方、冬の遅い朝の気配が東の空に見える頃まで、途切れることはなかった。
「夏希、おい、風邪ひくぞ」
 床に膝を抱いて座っていた夏希は、兄・悦嗣に起こされた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、自分の前にかがむ兄の姿が見えた。
「エツ兄…」
「いったいいつからいたんだ? 声かけろよ」
「だって、声かけたら弾くの止めちゃうじゃない。それに、いつもなら気づくじゃん」
 兄は苦笑した。
「お兄ちゃんのピアノ、初めて聴いた」
「いつも弾いてるじゃねーか」
「違うよ、本気のピアノだよ」
 夏希の腕を掴んで、立つように促す。『真夜中のコンサート』の余韻は、もうこの部屋に残っていない。
 兄は夜遅くにいきなり帰ってきた。ピアノの調律のためと言って、来るなりレッスン室にこもってしまった。前の調律から三ヶ月も経っていない。第一、手ぶらだった。外の入り口から運んだとも考えられるが、レッスン室には何もなかった。 昨日のお見合いで何かあったのだろうか?
――でも、エツ兄は最初から断るつもりだったし
 見合いの付録のコンサートはピアノ系ではなかったから、刺激されたわけでもないだろう。何がこの兄を本気にさせたのか。 
「ねえねえ、何かあったの? 実は相手の人が好みだったとか? でも園子おばさんが持ってきた話だから、断っちゃったとか?」
「何にもねーよ。変なこと考えるな。おまえ、今日、仕事だろ? 少し寝ておけよ。俺も帰って寝るから」
「泊まってけばいいじゃん」
「夏希がうるさいから、帰る」
「あ、やっぱり何かあったんだ?」
「疑り深いヤツ。俺はこっちから出るから、鍵、閉めとけよ」
 兄は肩を竦めて、母屋側とは違うドア・ノブに手をかけた。
 ピアノはきちんと片付けられている。一晩中、兄はここで弾いていたのだ。
「エツ兄、かっこ良かったよ」
 今しも出て行こうとしていた兄は、振り返った。
「さんきゅ」
 照れた表情で応えた後、ドアを押し開けて出て行った。
 夏希は閉まりかけたそれに手を伸ばした。ドアはもう一度、押し開かれた。冷気が入ってきたが、気にしない。
 夏希は薄暗い冬の朝へ消えて行く、兄の姿を見送った――耳の奥に残る音を反芻しながら。




(6)


二十時四十五分発成田行き NH(全日空)210便をご利用のお客様にお知らせ致します。現在、フランクフルト上空、悪天候の為、出発が遅れております。今しばらく、ゲート付近ロビーにてお待ちくださいませ。回復次第、搭乗を開始いたします
 案内のアナウンスが終わると、それを聞くために静かになったロビーに、ざわざわと声が戻った。その場にいるのはほとんどが日本人で、ヨーロッパ旅行のツアー客が占めていた。天候不良で待機の間も、搭乗者エリア内のショップを回ったり、展望スペースから滑走路を眺めたりと、暢気に時間を潰している。しかし一握りの人間はイスに座って、恨めしげに何度も時計を確認していた。出張中のビジネスマンと、帰国後すぐに出勤しなくてはならない一部のツアー客などである。さく也もそのグループの中に属していた。
 ウィーンから日本への直行便は午後一本しかなく、さく也は夕方遅くに出るフランクフルト経由の便に乗ったのである。フランクフルトの天候が悪く、すでにニ時間近く待たされていた。これ以上の遅れは、欠航になることも考えられる。急ぐ必要のない彼だが、欠航にはなって欲しくない。
 会いたいと言う気持ちだけで、さく也は何もかも放り出してウィーンを出てしまった。フランクフルト空港から楽団事務所に連絡すると、「明日からの国立劇場はどうする気だ」と怒鳴られた。Wフィルはもともと国立歌劇場楽団のメンバーからなるオーケストラで、毎日上演されるオペラと月に一度の定期演奏会、それから各音楽祭への参加、アンサンブルでの活動などを、楽団員が分散して行うシステムになっていた。さく也は今、歌劇場での、言わばメインのシフトになっている。マネジャーが怒るのは無理も無い。「クビかも知れない」とぼんやり思った。
 持って来たのはヴァイオリンとパスポートとカードだけで、ほとんど身一つの状態だ。フランクフルトに着いて、携帯電話を忘れたことに気がついた。ウィーンではほとんど使わないので、『必要最低限リスト』の中には入っていない。携帯電話がないと加納悦嗣の電話番号も住所もわからないのだが、取りに戻るには、近くないところまで来てしまった。
 それに、そんなことは問題にならない程、さく也の心は逸っていた。耳には加納悦嗣の電話の声が残っている。
声が聞きたかっただけだから
 その一言が、さく也を日本に、彼の元に向わせているのだ。
 脇に立てかけたヴァイオリン・ケースを見やる。勢いで持ってきた分身。これが無ければ、まだ自分は悦嗣に会えないと思った。悦嗣にとって自分はヴァイオリニストに過ぎない。彼を惹きつけているのは、さく也本人ではなく、さく也が作るヴァイオリンの音色なのだから――ヴァイオリンを持たない自分を、彼はどう思っているのだろう?
「待たされますねぇ?」
 俯き加減のさく也に、隣に座っている男性が声をかけてきた。年の頃は三十を越したくらいで、カジュアルな恰好をしているからツアー客の一人だろう。足元には一人分ではない機内持ち込みようの手荷物がある。どうやら家族連れで、荷物番をしているようだった。
「本当に」
とさく也が答えると、少々疲れた顔に笑顔が浮ぶ。
「僕は帰ったらすぐに仕事なんで、欠航になったら困るんです」
 話を続けて、彼はさく也の荷物に目を留めた。
「ヴァイオリンですか?」
「はい」
「留学生?」
「いえ、仕事してます」
「ヴァイオリニスト? そりゃすごいな」
 彼は興味津々な表情で、さく也を見た。
「僕も習ってたんですよ、ヴァイオリン。と言っても小学生の頃だけどね」
 親に無理やり習わされていたが、同時期に入った少年サッカーのクラブ活動の方が面白くて、高学年になってレギュラー入りしたのを機に、止めてしまったのだと彼は話した。人見知りしない性格らしく、口数の少ない相手だろうとお構いなしで話を続ける。誰かに似ているな…さく也は悦嗣の妹の夏希を思い出した。
「でも大人になったら、もう少しやっとけば良かったかなって。大学のコンパなんかで女の子に習っていたって言ったらウケが良くってね。ほとんど弾けないから、せっかくのデートも…あ、すみません。仕事にしている人に」
「いえ」
「今は子供が習ってますよ。ほら、あそこで走り回ってる」
 滑走路が見える窓の辺りではしゃいでいる子供を指差した。それから「エミ、カズト、おいで」と声を上げた。
 呼ばれた二人の子供が駆け寄ってくる。小学生の姉弟と言った感じだ。父親に促されて、女の子が先にペコリと小さな頭を下げ、それに倣って男の子が頷きに似た挨拶をした。さく也が「こんにちは」と返すと、「夜なのに変なの」と、下の子が屈託なく笑う。
「このお兄さんはヴァイオリニストなんだって」
 ヴァイオリン・ケースを指差して彼が説明する。
「この中にヴァイオリンが入ってるの?」
 箱型のケースは珍しいのか、好奇心旺盛の目で男の子が尋ねる。さく也が頷くと、「弾いて」と二人揃って声を上げた。二時間にもなる待機時間にそろそろ飽きがきているのだろう。それは父親の方も同じで、子供を嗜める口調が甘かった。
 何時の間にか、さく也の急いた気持ちは落ち着いていた。少し前まで鬱屈していた心も、軽くなった気がする。立ち上がって、ヴァイオリン・ケースをイスの上に乗せ、ファスナーを開けた。傍らで子供達が覗き込んでいた。ヴァイオリンと弓を取り出しペグを調節する。弦の張り具合を弓で確認した後、子供達を見た。ぱああと、二人の顔に笑みが広がる。この期待感は、さく也に寄せられているのだ。
 ヴァイオリンだけでもいい。自分のヴァイオリンが悦嗣を惹きつけるのなら、少なくとも忘れられることはない。音は即ち、さく也なのだから。
 すうっと息を吸い込む。弓が弦を滑った。




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